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2012年7月 9日 (月)

原発再稼働に思う

昨年3月11日の東日本大震災は、地震・津波・原発の三重災に加え、風評被害等も重なり、日本の国の未来に大きな影を落としている。とりわけ原発事故に対する対応は、将来のエネルギー政策をも左右しかねない大きな政治的課題となっている。その後50基の原子力発電所は、すべて停止となった。日本は、国挙げて「脱原発依存」社会構築のために取り組まなければならない「まったなし」の状況にある。

国民の誰もが安心できる対応がなされるための賢明な政府の対応が望まれるところだが、真夏の電力需要を背景に、電力確保優先で大飯原発の再稼働が決定された。しかし再稼働に踏み切ったものの、国民に成り代わってのクラゲの大量発生(笑い)もあり、先行き多難であることには間違いない。そもそも原発に対して、「反原発」「脱原発」の観点での反対の立場で議論すれば、平行線をたどることは明白だ。原発に依存しない国を構築するためには、エネルギー自給率18%の国で、しかも自給率の80%が原子力による発電に依存している我が国では、少なくとも10年、20年のスパンで石油、石炭、天然ガス等の火力発電や水力発電、天然ガス等のエネルギーをミックスし対応することが求めらる。現在、太陽光発電等の自然エネルギー率は、我が国はわずか1%程度。西ドイツのようにエネルギーの50%近くを自然の再生可能エネルギーで賄える国を目指す必要がある。その意味でも2020年までに再生可能エネルギーの導入目標を現在1%から15%目指すことが重要だ。

こうした「脱原発依存」の考え方は誰でも賛同できるものと思われる。しかし、今回の大飯原発再稼働の問題は、こうした総論ではなく、国民の生命と財産を守るべき政府の責任ある対応であったかどうかが問われる問題だと認識する。「なぜそんなに急ぐのか」という疑問に政府は答えていないように思うからだ。安全性の判断基準は、福島原発事故で、すでに信用失墜しているだけに、誰がどのような基準で、安全確認するのかという極めて初歩的な疑問に答えるだけの明確なバイブルを政府は持たねばならないのは当然だ。

過日、浅野史郎教授(慶応義塾大学)が、原発再稼働を決定した手続きの問題を挙げての論文を垣間見ることができた。宮城県知事を経験している方だけに、現場に即した内容で誠に興味深いものだった。

第1の問題点は、再稼働ができなければ真夏の電力需要に支障をきたすとして、安全基準が極めてあいまいなまま再稼働にゴーサインを出したこと。

第2の問題点は、安全基準の根拠として、現在、原子力安全保安院が審査し、その結果を原子力安全委員会が確認するという一応ダブルチェックがかかっている。しかしいわゆるストレステストだけでは不十分という指摘からも、このことを知りつつ再稼働にゴーサインを出したこと。

第3の問題点は、原子力安全保安院に代わる原子力規制庁が発足していない段階で、再稼働にゴーサインを出したこと。これは規制庁の承認なしに再稼働をしたということ。

第4の問題点は、立地県地元自治体の同意が得られているかという問題も、首長の意思がそのまま住民の意思と言えるだけの根拠が乏しい中で、再稼働にゴーサインを出したこと。

以上のような浅野教授の論点は誠に整理されたものだ。

このように考えれば、今回の大飯原発再稼働問題は、判断の在り方が問われている問題と言える。6月20日には、原子力規制委員会設置法が成立し、今後安全基準等が示されることとなるが、大飯原発再稼働は、こうした今までのチェック機能とはことなり、極めて厳しい第三者機関からの提言助言を待たずに再稼働に踏み切ったのである。あまりにも拙速不誠実と言わねばならない。

政府の「電力確保のため」という視点と、国民の「安全確保のため」という視点とが、真っ向から対立している状況下にあって、政府は、まずは「安全確保」最優先することが求められているのである。そのことが東日本大震災の教訓ではなかったのか。その上で、「電力確保」ということではないのか。その意味では、今回の政府の判断は、極めて拙速な判断であると断ぜざる得ない。政府がとるべき道は、現段階では、仮に今夏の電力需要に支障があるというなら、期限付きの稼働にし、夏が終われば直ちに停止させるべきである。その上で、「再稼働ありき」ではなく、最善の努力を結集し、国難ともいえる事態を国民とともに、乗り切るべきだ。

 

 

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