井戸塀政治家と井戸端政治家
「井戸塀(いどべい)政治家の不在」ということを言われているのは、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏です。その意味は「政治に命を懸け、その挙げ句資産のほとんどを失って、井戸と塀しか残らない政治家」というもので、こうした政治家はやはり明確な国家ビジョンを持っていたということです。そして堺屋太一氏は「今までの改革はジグゾーパズルのひとついとつのパーツの組み換えに過ぎない。もっとパズルの全体像(ビジョン)を示すことがこれからの3年間の課題であるとも指摘しています。(日本の社会戦略/稲盛和夫・堺屋太一共著)
現在の政治が官僚政治や官邸政治、さらには人気投票化する国政選挙の中で、民主主義の政治が危うくなってきていることを示唆しています。またマスコミが「視聴者受けする記事や番組」をこぞって流すことは報道の自由があるにせよ、戦前と同様に右傾化の危険性をはらんでいることも両氏は指摘しています。まさに民主主義の危機です。
井戸塀政治家の出現が求めていますが、私はもうひとつ井戸端政治家の視点も重要だと思います。井戸端会議は庶民なかんずく主婦の情報交換の場です。政治の良し悪しは生活の現場を抜きには語れません。いくら憲法論議や外交問題を論じても庶民に重要なのは「生活と健康」です。言い換えれば生活現場感覚のある政治家の台頭が求められているということです。井戸端政治家とはまさに生活現場主義に徹する政治家を意味すると私は思っています。井戸塀と井戸端の両方の視点を兼ね備えた政治家の台頭が次代の政治の方向であることを改めて実感します。
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