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2007年11月23日 (金)

首長選挙(市民参加の新たなかたち)

住民が選挙によって首長や議員を選択することは民主主義の社会を維持していくためには必要不可欠の制度であるが、今時代とともに、この民主主義のあり方が、変化を余儀なくされる時代を迎えている。今の日本には残念ながら50年100年の大計から物事を考える視点を持った政治家が少なくなったといわれるが、昨今の政治家にまつわる不祥事や不見識な発言などを見るにつけ、これでは10年先さえも見えてこないと思うのは自分一人ではないと思う。今を生きる民意を認識しなければならない。過日18日、大阪市長選挙が執行され民間出身の市長が誕生した。この選挙結果の分析は政治評論家や学者などの専門家に委ねたいが、ただ地方議員という生活現場で日夜活動している私たちにとっては、ここ数年の有権者の投票行動に大きな地殻変動が起きつつあることを痛感するのである。以前から未来学者であるアルビン・トフラーが提唱している第三の波の情報化時代においては、情報の共有化どころか、政治家と有権者との情報の格差は逆転現象にあるといってよいだろう。従来であればいわゆる特権的な立場であった政治家は、政治や行政等の特定情報分野においては住民よりも情報量は各段に上回っていた。しかし現在は、政治家よりもむしろ市民レベルの情報量やネットワーク化が増大している。トフラーは、こうした時代の流れは政治でも大きな変化をもたらすと指摘し、半直接民主主義・決定権の分散・少数意見の尊重という第三の波の政治における3つの指標を提起している。したがって彼の理論からいえば、今後の各選挙は政策論争を軸としたマニフェスト選挙に移行していくことは当然の帰結といえる。しかし問題は、マニフェストを市民に提起する側の基本スタンスである。民主主義のあり方が大きく変化してきている時代を知らなければまさにマニフェストも、従前の公約をなんら変わらない。ここ数年「市民参加」という視点が、当り前のように言われているが、「市民を参加させる」という上から物を見る従来のお役所の発想の域を出ていないと思うことが多くある。いくら「行政改革!教育改革!」と叫んでも、市民との共有化がなければ無意味なのである。私は昨年京都市職員の不祥事問題の解決に向けて、「京都市市役所改革」を提案したが、その中で「倫理の共有化」「責任の共有化」「行動の共有化」を提起した。共有化とは組織の論理だけではない。市民と議会と行政とのトライアングルの中にも「共有化」を位置付け具体化しなければならない。すなわち、倫理・責任・行動の3つを首長も議会もそして市民自身も共有化し、そして協働してこそ、これからの民主主義は成り立つと私は思っている。その意味では民主主義の形が変わりつつあるときが今なのである。したがって次の10年は地方自治においても大きな意味をもつ10年となろう。その時代を先駆するのが市長でなければならない。政党の枠組み論として2極や3極は現実の問題として無視はできないことは十分に承知しているが、新しい時代における「首長と議会」「住民と議会」「首長と市民」の新しい形を創造することが、私たち政治家にも求められている。その意味では対立よりも対話の時代を基本スタンスにおくべきであろう。次代に求めらるのは、対立で勝ち組と負け組をつくる枠組みではなく、それぞれが勝ついわば「価値組(かちぐみ)」を作ることだ。それが合意形成を基軸にした政治である。次の京都の10年は非常に重要な時代といえるが、それだけに次の首長には、「市民参加」の新たなかたちを提起してもらいたいと願っている。そしてそのビジョンの答えは、市民力の中にこそあることを思う。

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