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2010年3月

2010年3月23日 (火)

京都市会2月定例会(予算市会)閉幕

2月17日からスタートした京都市平成22年度の予算案を審議する2月定例議会が、3月19日に閉幕しました。一般会計では、一昨年のリーマンショックによる影響で市政始まって以来の厳しい財政状況の中でありましたが、門川市長は「市民の生活を守り、未来への投資も行うトライ予算」との方針のもと福祉政策は後退させないとの強い決意が現れた予算であり、私たちも賛成の意を表明しました。

今議会での大きな問題は、保育園連盟に永年補助してきた補助金の執行のあり方とプール制そのものの是正、国民健康保険の保険料の2年連続の値上げ、保健所のセンター化、市立看護短大の廃止と4年生化、であったと思います。今話題となっている京都水族館構想も活発な議論が交わされました。

最終本会議では、共産党と自民党が、市立看護短大の廃止条例に反対し、公明党、民主都みらい議員団の賛成少数で、否決されました。これは前代未聞です。今までも自民党と共産党とが政策判断において同じくすることは同和問題の決議等多々あったことも事実ですが、今回の自民党の判断については、今後の市政及び議会運営において影響が少なからず出るものと思います。本予算には、短大廃止に伴う看護師の奨学金制度が創設されておりますから、廃止条例を否決すれば自ずと本予算も否決という政策判断をしなければ筋が通りません。賛成するからこそ、多くの付帯決議を付けて議会の意見を踏まえた予算執行を求めるわけです。しかし最終本会議での自民党の反対討論の、「一度立ち止まって考えるべき」「4年制移行について反対しているわけではない」との主張からすれば、「継続審議」が本来あるべき判断だったのではないかと思うのは私一人でしょうか。自民党議員団として最終的に決断されたのですから、私達としては、政党会派の意思を尊重せざるを得ませんいずれにしても、政権交代をはじめ、現在の政治状況は、従来のものさしでは、推し量ることができないものです。時代の流れをしっかりと見つめ市側も議会側も、新しい時代における使命と役割を再考しなければならない時にきているのだと痛感した議会でした。

2010年3月21日 (日)

歩み(History of Life)

◆1955年 ふるさと  京都府綾部市に生まれる
父が、京都府繭検定所の職員であったことから家族6人で宿舎で暮らしました。きょうだいは、17歳年上の姉、15歳年上の兄、そして12歳年上の姉だったこともあり、兄弟喧嘩の記憶はまったくなく一人っ子のように大事にされ幼少を過ごしました。蚕を育てるための竹で編んだ籠の中に入れられ、繭になる前の蚕(かいこ)といっしょに遊んでいたことを覚えています。今でも桑の実や葉の匂いは懐かしい思い出を呼び起こしてくれます。その後、父が自宅を建て、4歳ごろに引っ越しをしました。保育園にはしばらく行きましたが病弱により不登園に。5歳になり幼稚園には元気に通園し、幼稚園の学芸会では「ブレーメンの音楽隊」という劇(何の役だったか定かでありません)を演じました。

◆1962年 小学校時代  綾部小学校に入学
小学校では、算数、図画工作、家庭科が得意でした。家ではいつも漫画ばかりを描く他、ぬいぐるみを作ったり、料理(特に、サラダドレッシングは上手に調理したようです)にいそしんでいたようです。また当時流行った「そろばん塾」に行くように友人から勧められましたが、自分には不向きと判断し1日で止めました。病弱な体質であったので、友達もいっしょに身体を鍛えるため5年生から綾部市スポーツ少年団の剣道の部に入部し、毎朝、警察署の道場で練習稽古に明け暮れました。そろばん塾と異なり、剣道はその後10年続きました。

◆1968年 中学校時代  綾部市立中学校に入学
中学では、数学、美術、技術家庭、生物など理科系科目が得意でした。クラブでは剣道部に所属し、3年生の時に初段を取得し、キャプテンとして汗を流し、近畿大会に出場するまでに。一方、15歳上の兄が、ステレオやギターを買ったことがきっかけで、音楽に目覚め、クラシックギターを独学(NHKギター教室番組)ではじめました。また3年生の時には、サイモンとガーファンクルが流行っている時代で、友達とフォークバンドを結成し文化祭で「コンドルは飛んでいく」を演奏しました。

◆1971年 高校時代  綾部高等学校(普通科)に入学
高校では、剣道と音楽に更に拍車がかかりました。剣道では、1年生からレギュラーとして試合に出場し、1年生の秋には昇格試験を受け、2段を取得。さらに2年生の春には3段を取得しました。3年生の時には、キャプテンとして試合に出場。府下約60校ある高校剣道大会では、連続で5回優勝し綾部高校としての金字塔を打ち立てました。一方、中学からはじめた音楽では、フォーク、フォークロック、カントリー等の音楽に傾倒し、バンド活動を多彩に展開しました。大の友人と二人でジェットソン・スキッフル・バンドというフォークロック系バンドを結成し、3年間ほど活動する中で、大阪を舞台に活動をしていたセミプログループ「三つの時」に認められ、綾部市民会館で「さよならコンサート」を盛大に開催することもできました。

◆1974年 大学時代  近畿大学理工学部数学物理学科Aコース(数学)に入学
大学受験の際には、調理師としての道に行くか、それとも数学の教師の道を歩むか、大変に悩みましたが、結果的に近畿大学理工各部を受験し合格。希望に胸を膨らませ大阪へ。知人の紹介で、大阪の京橋(都島区)で下宿しましたが、なれない都会の一人暮らしで、いつしか勉強もおろそかになり3回の留年生活となり合計7年通学することになりました。在学中は、レコードショップ、喫茶店、水産、交通調査、家庭教師等のアルバイトをする傍ら、音楽活動は続けました。大学の先輩に誘われてバンド加入し、ヤマハのポピュラーコンテスト(俗にいわれるヤマハのポプコン)にも参加(惜しくも予選落ち)しました。こうした中で、かけがえないのない生涯の友人を多く作ることができました。私の大学時代は、学問を探求したというよりも、人生哲学を学んだことが最大の誉れです。

◆1981年 社会人時代  京都の繊維メーカーに就職
一時、中退も決意したこともありましたが、友人の温かい励ましもあり大学は何とか無事卒業しました。しかし当時はオイルショックにより就職氷河期の状況。留年生は、書類審査でほぼ不採用。そんな中、近畿大学理工学部数学物理学科の先輩が就職している京都の繊維メーカーの会社を学生課から紹介され会社訪問に行きました。ちょうど2年前に母親が逝去したことで、実家に父を一人にしておくことも不安であったことから、大阪よりも京都市内へ就職することを選択し最終的に、これまで一応学んできた数学とは直接的には関係のない繊維メーカー会社に就職しました。しかし、就職すると社会人として身につけなければならない様々なチカラを京都の伝統産業の会社で学ぶことができ、心から感謝しています。会社では、管理部、商品部(誂え部)、商品部(企画部)、商品部(海外製品部)等に所属し、伝統産業、京都の文化等いろいろと勉強させていただきました。

◆1991年~2023年 京都市会議員時代  フィレンツェ市での国際会議へ市民の代表として参加
繊維メーカーの会社で約10年勤務し、海外からの製品供給等、会社の新たな事業分野で活躍をしようと思っていた時、政治家という新たな人生を選択する機会に遭遇。大変に悩んだ末に、円満退社し政治家の道へ挑戦。35歳という若さで初当選を果たして以来、8期32年間活動することになりました。
60歳の時には、京都市会副議長に選出され貴重な経験をさせていただきました。中でも副議長在職中に、文化庁京都移転が決定するという場に遭遇したことや、京都市民を代表して市長の名代でイタリアのフィレンツェ市で開催された「多様性の結束」という平和と人権のための国際会議に参加し、参加者の一人として、フィレンツェ憲章に署名したことは生涯の誇りです。

代表質問(平成22年2月)

<代表質問の項目>
①平成22年度予算について
②市債の発行について
③消費者行政について
④国民読書年について
⑤コミュニティの再生と活性化策について
⑥進化する景観政策について
⑦戸籍等に関する本人告知制度の導入について

質問(全文)…situmoH2202.pdfをダウンロード

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